霓虹人Himiko桑

2019年3月神戸市外大中国学科卒業。2017年復旦大学国際交流学院。中国語と中国が好きな自称エッセイスト。

朱自清《匆匆》

毎週土曜日は立命館孔子学院梅田キャンパスの中国語サロンの日。

www.ritsumei.ac.jp

 

 

北京大の先生一人と、日本人参加者八人くらいでざっくばらんにお話をする会。
中国語を勉強している背景も年齢も仕事も参加者によってみんなばらばらなので、
休みの日にまで中国語を勉強するほど中国語が大好きな方と交流することで、
私ももっと頑張らねばという気持ちになる。

昨日は民国の頃の朱自清という学者(随筆家)の随筆が題材だった。
「流れ行く時間について皆さんはどう思いますか?」という質問から、
それぞれ自分の人生における過去と現在について話し、《匆匆》という随筆を読んだ。
時間という概念を擬人化したり、
タイトルの通り時間が過ぎ去るその慌ただしさやせわしさについて細かく描写されており
作者が五四運動の衰退期に現実を突きつけられた苦しみが書かれている。

ちなみに中国人はこれを中学校で勉強するらしい。
それを聞き今の自分の中国語レベルはネイティブの中学生くらいなんだと思った。
むずかしすぎる。

让过去过去吧という言い方がある一方、

過去のきれいな思い出や美しい日々を思い出すことで、今を生きる原動力につながることもある。
この文章を読んで、大学生活、特に1年弱の上海での生活が思い出されて、泣きそうになった。


以下、朱自清《匆匆》全文。
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燕子去了,有再来的时候;杨柳枯了,有再青的时候;桃花谢了,有再开的时候。
但是,聪明的,你告诉我,我们的日子为什么一去不复返呢?
——是有人偷了他们罢:那是谁?又藏在何处呢?
是他们自己逃走了罢——如今又到了哪里呢?
我不知道他们给了我多少日子,但我的手确乎是渐渐空虚了。
在默默里算着,八千多日子已经从我手中溜去,
像针尖上一滴水滴在大海里,我的日子滴在时间的流里,没有声音,也没有影子。
我不禁头涔涔而泪潸潸了。
去的尽管去了,来的尽管来着;去来的中间,又怎样地匆匆呢?
早上我起来的时候,小屋里射进两三方斜斜的太阳。
太阳他有脚啊,轻轻悄悄地挪移了;我也茫茫然跟着旋转。
于是——洗手的时候,日子从水盆里过去;
吃饭的时候,日子从饭碗里过去;默默时,便从凝然的双眼前过去。
我觉察他去的匆匆了,伸出手遮挽时,他又从遮挽着的手边过去,
天黑时,我躺在床上,他便伶伶俐俐地从我身上跨过,从我脚边飞去了。
等我睁开眼和太阳再见,这算又溜走了一日。
我掩着面叹息。
但是新来的日子的影儿又开始在叹息里闪过了。
在逃去如飞的日子里,在千门万户的世界里的我能做些什么呢?
只有徘徊罢了,只有匆匆罢了;在八千多日的匆匆里,除徘徊外,又剩些什么呢?
过去的日子如轻烟,被微风吹散了,如薄雾,被初阳蒸融了;我留着些什么痕迹呢?
我何曾留着像游丝样的痕迹呢?
我赤裸裸来到这世界,转眼间也将赤裸裸的回去罢?
不能平的,为什么偏要白白走这一遭啊?
你聪明的,告诉我,我们的日子为什么一去不复返呢?
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